マイノリティとジェンダー(7月13日、担当:藤巻光浩)
全学共通科目「男女共同参画社会とジェンダー」の13回目の授業が、7月13日(木)5限に行われました。
今回は、「マイノリティとジェンダー」と題して、フェリス女学院大学文学部教授の藤巻光浩先生に講義を行っていただきました。最初にご自分の専門分野の簡単なご紹介がなされた後、先生からは、あらかじめ今日の講義の結論として「マイノリティ」とは「本質的概念」ではなく、あくまでも「関係性概念」、つまり偶有性・流動性を持つ概念であり、条件を変化させれば関係は変化しうること、「偶有性に開かれていること」の大切さが強調されました。そして、その偶有性が担保されないときにマイノリティの本質的・存在論的概念が始まってしまうことにしっかり目を向け、そのことを分析する視角として、ジェンダーという問題意識から、「慰安婦」問題を取り上げて論じることが今日の主題になると述べられました。
続いて、2015年末の日韓外相会談でこの問題の「最終的かつ不可逆的解決」をめざした合意がなされた出来事が取り上げられ、これに対して被害者(サヴァイバー)・支援団体からは強い不満の声が上がったこと、そこには、当事者の声を無視して国家間で政治的解決が図られたことの問題性、そして、彼女たちの求める「歴史的な名誉の回復」の意義をどうとらえるべきか、という問題提起がなされました。そこであらためて「慰安婦」という言葉が作り出すイメージが、結局自分の意思による商行為者としての「売春婦」というイメージにつながるものであることが論じられ、国連での報告で用いられている「レイプ・センター」における「性奴隷」といった表現がついに日本社会に浸透してこなかった背景に存在している「加害者側」の視点こそが問題であることが厳しく指摘されました。そして日本における「慰安婦」問題がこのように「売春婦」言説に陥ることで、彼女たちが国家による組織的なレイプ被害者としての地位を確保することが著しく困難になり、結果として「マイノリティ」としてのポジションに本質的に置かれてしまう「記憶の暴力」のメカニズムが明確に解明されました。その上で私たちに課された課題として、彼女たちの「私たちは「慰安婦」ではない」という声を真摯に受け止め、彼女たちを「レイプ被害者」として位置づけることで、この問題を現代の私たち自身の問題とすることができること、さらに「加害者」の存在も確定させ、彼女たちの歴史的な「名誉の回復」という正義を実現する可能性が開かれることの意義が示されました。そして最後に、彼女たちが「汚れている」のではなく、彼女たちを「汚れた女」として位置づける社会構造(ミソジニー)にこそ問題の根源があることがあらためて強調されました。
先生ご自身が直接長年にわたって聴き取り調査を重ねてこられた当事者女性たち自身の声も具体的に紹介され、そこから私たちが何をくみ取るべきか、深く考えさせられる授業となりました。
次回は、「一五一会」演奏家で、性的マイノリティ当事者である会津里花さんをお招きして、「マイノリティとジェンダー~特別講義とミニ・コンサート」が行われる予定です。
受講生の声
経営情報学部・4年・女性
慰安婦問題については、よくニュースなどで見ることがあったが、「慰安婦」という言葉の意味まで考えたことはなかった。そして、国によってその言葉の捉え方が異なっていることを初めて知った。「慰安婦」の意味は、誰が定義づけることが正しいのか、考えさせられる授業だったと思う。私は、被害者の定義を用いることが正しいのではないかと思うが、これからその被害者が亡くなり、この世に存在しなくなる時にまだこの問題が続いていると、加害者であったり、国にとって都合のいい定義づけになってしまうのではないかと思う。そのため、この問題の解決と、彼女たちの名誉の回復を早急に進める必要があると思った。
経営情報学部・1年・男性
ジェンダーのマイノリティというと、LGBTなどの性的少数派を連想するが、見方や条件によって異なる対象をマイノリティとして見ることができるのであろう。「慰安婦」="Sex Slave"の人々もそのひとつである。
中世から近現代、戦争期の先進国による行為は、言い方が適切ではないかもしれないが反省でき、教訓としなければならないことばかりである。しかし、現在謝罪や賠償、当事者への保障の責任を求められている日本人は当時を知らず、また訴える側の人間も多くは当事者ではないというのが残念ながら事実として存在する。
彼女らを汚いという認識がないからこそ、現代の私たちに責任が求められていることが疑問に思ってしまう。真に汚いのはそれらを政治や反日・嫌韓などに利用する側の人間ではないだろうか。