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マイノリティとジェンダー(7月5日、担当:藤巻光浩)

 全学共通科目「男女共同参画社会とジェンダー」の12回目の授業が、7月5日(木)5限に行われました。

 今回は、フェリス女学院大学文学部教授の藤巻光浩先生に、「マイノリティとジェンダー」と題して講義を行っていただきました。授業の冒頭では、受講生に「出身地」「血液型」などの異なる条件が与えられると、受講生の間でのマイノリティとマジョリティの関係が変化し、条件によっては同じ受講生がマイノリティにもマジョリティにも所属しうる、ということが確かめられました。このことを通じて、「マイノリティ」とは「本質的概念」ではなく、あくまでも「関係性概念」、つまり偶有性・流動性を持つ概念であることが説明されました。また、マイノリティとは条件を変化させれば関係が変化しうる概念であり、この偶有性・流動性が担保されない時に、マイノリティの本質的・存在論的概念が始まってしまうことも指摘されました。これらを分析する視角として、ジェンダーという問題意識から、「慰安婦問題」を取り上げて論じることが今日の主題になると述べられました。

 続いて、2015年末の日韓外相会談でこの問題の「最終的かつ不可逆的解決」をめざした合意がなされた出来事が取り上げられ、これに対して被害者(サヴァイバー)・支援団体からは強い不満の声が上がったこと、そこには、当事者の声を無視して国家間で政治的解決が図られたことの問題性、そして、彼女たちの求める「歴史的な名誉の回復」の意義をどうとらえるべきか、という問題提起がなされました。そこであらためて「慰安婦」という言葉が作り出すイメージが、結局自分の意思による商行為者としての「売春婦」というイメージにつながるものであることが論じられました。さらに、国連での報告で用いられている「レイプ・センター」における「性奴隷」といった表現がついに日本社会に浸透してこなかった背景に存在している「加害者側」の視点こそが問題であることが厳しく指摘されました。

 そして日本における「慰安婦」問題がこのように「売春婦」問題に陥ることで、被害者が国家による組織的なレイプ被害者としての地位を確保することが著しく困難になり、結果として「究極のマイノリティ」としてのポジションに本質的に置かれてしまうメカニズムが明確に解明されました。被害者を「売春婦」として思い出すのか、「レイプ被害者」として思い出すのか、これが私たちにとっての大きな課題であり、後者の立場に立つことによって初めて私たちが「誰にでも起こりうる問題」としてこの問題をとらえることができ、自身の問題に引き付けて被害者に寄り添っていくことが可能になることが論じられました。この時に、関係性概念としての「マイノリティ」概念が活かされ、被害者の歴史的な名誉の回復も実現していく道筋が提示されました。

 今回の授業は「マイノリティ」の真の声を聞くことの難しさを深く考えさせられる授業となりました。また、先生ご自身の慰安婦経験者への聞き取り調査の成果も具体的に紹介され、歴史的にも貴重な証言から私たちが何をくみ取るべきかを考え直すきっかけにもなりました。

 次回は、助産学、母性看護学、ウィメンズヘルスが専門の本学看護学部の藤田景子先生により「リプロダクティブ・ヘルス/ライツとジェンダー」の講義が行われる予定です。

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受講生の声

国際関係学部・2年・女性

 慰安婦という言葉は韓国で慰安婦の少女像が設置された事件をきっかけに頻繁にニュースで耳にするようになったが、この授業を受けて、いかに私が今まで慰安婦の女性達をイメージで判断してきたかということに気づかされました。実際に藤巻先生が慰安婦の女性に会った時に最初に「私は慰安婦じゃない。」と言われたと聞いて、彼女達を勝手に軍の安定のために利用して、勝手に慰安婦という名前をつけて、勝手にそのイメージを決めつけて、これ以上彼女達の名誉を汚すようなことは現代の私達もしてはいけないと思いました。そのためにも壮絶な過去の記憶を振り絞って、彼女達が伝えようとしたことにもっと耳を傾けて、慰安婦という総称ではなく、彼女達一人一人を知るべきだと思いました。

国際関係学部・3年・女性

 今回の授業を通じて、「マイノリティ」という言葉に対するイメージが変わりました。はじめは、「マイノリティ」と聞くと「珍しい」「少数派」といったように漠然とした考えしか持っていませんでしたが、「マイノリティ」を生み出す過程を知ったことで、そのように固定化して考えるものではないと分かりました。

 「慰安婦」問題については、韓国側からこのことが取り上げられるたびに、自分も「韓国は済んだ話をまた掘り返してくる」と思っていた1人でした。しかし、今日初めて被害者の声を聞き、その方たちの存在を強く認識したことによって、直接関与した訳ではないけれど、現代に生きる私たちもこのことを真剣に考えるべきだと感じました。